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シン・ゴジラ。現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)

映画 ネタバレ

ゴジラシリーズ第29作目。昭和、平成、ミレニアムとは全く異なる作品。世間的には『ゴジラ FINAL WARS』以来約12年ぶりの日本ゴジラ映画、総監督・脚本 庵野秀明、監督・特技監督 樋口真嗣、300人を超える出演者など話題に事欠かない作品。

映画自体は「ゴジラ映画」という枠組みを超えて良い映画だと思う。公開数日で様々なブログやレビューなどが書かれてるけど、どれも評判は悪く無い。そういうのを見ていると、ついついネタバレありでしゃべりたくなってくるので、思い切って書いてしまう。

本作のテーマ「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」

この映画のテーマは「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」。なにせポスターにもでかでかと書いてあるのだから間違いはないだろう。映画を見ていると確かにリアルな日本と社会制度があり、虚構としてのゴジラに立ち向かうというプロットで十分納得できる。

納得できるのだけど、もう少し思ったことがあるので以降はそれについて書いてく。それ以外の話、例えば監督や俳優、演技、特撮、ゴジラ映画の他の作品も必要にならないかぎり触れないつもり。そのほか映画が面白かったとか、どうとかについても触れない、はず。

虚構(ゴジラ)

この映画の最大の虚構はゴジラそのものと言っていい。地下トンネルの崩落事故が発生し、官邸で原因を喧々囂々しているなかでも一笑に付された巨大生物説。そして一笑に付された直後に出現する巨大な尻尾。そして海上を移動する謎の生物。

専門家はわからないとしつつ巨大生物の体の構造的には上陸はありえないと断言し緊急記者会見した直後に上陸。途中で水中生物に似た構造だと思われていた矢先に2足歩行に変化。日本政府が手をこまねいているうちにいつの間にか海中に姿を消す。そして次に姿を表した時には、以前とは全く異なる形、生き物と化している。

今作のゴジラは、その全編において何度となく人間側の予想、思惑を超えて変化、拡大していく。そのはっきりとしない様、とらえどころのなさは、それ自体が巨大な虚構といってもよいのではないだろうか。映画は、その巨大な虚構に対する現実(ニッポン) が描かれる。

虚構(ゴジラ)の出現

当初は自然災害として処理されようとしたトンネル崩壊事故。海上に噴煙が上がり海を赤く染めていく。出現したゴジラは、大量の水や土砂でたくさんの船を押しのけながら川を遡行し上陸する。上陸後、進行方向のビルを押しかかるように、押しつぶすように壊しながら内陸に進行。そして不意に海へと帰っていく。

まったくもって唐突に描かれる虚構(ゴジラ)の出現だが、僕たちにとっては既に見たことがある光景だったのではないだろうか。西之島の噴火、そして東日本大震災。ものすごい勢いで流れていく水と押し流される大量の土砂と船。潰され、押し流されていく建物。これはまさにあの時見た光景ではなかったか。

本来、虚構であるはずのゴジラの登場は、見ている僕たちにとっては現実の再現でしかなかった。従来の怪獣映画では虚構とされていたはずの「怪獣」が「現実」を再現する。ここで虚構と現実の壁が一つ崩れていくのである。

現実(ニッポン) の対応

では、虚構であるゴジラに現実(ニッポン) はどのように対応しただろうか。現実であるはずのニッポン政府は、現実の日本政府と同様、未曾有の災害に対して後手を踏んでいく。硬直した官僚制度と縦割りの省庁、何かを決めるための会議をするための会議という連鎖。法律と現場、建前のすり合わせ。

おそらく有事の際の日本政府もかくの如くと思わせるだけのリアリティをもって描かれる日本政府の混乱。それはきっと現実に起こった東日本大震災、それに続く様々な災害時にも繰り返される光景なのではないだろうか。

巨大生物に対する防衛出動を出し渋り、法的根拠を有害鳥獣とするだけでも一苦労。いざ、ゴジラへの攻撃準備を整えて最後の命令を待つばかりとなった状況からの、攻撃圏内に民間人がいることを理由にした攻撃中止命令。

自衛隊が国民に対して銃を向けることなどあってはならない」という信念に基づく決断は日本政府ならばさもありなん。だが、その結果として巨大生物を進むがままにしてしまい、あまつさえ海に取り逃がしてしまう。

すべてが終わった後、「たった2時間でこのザマか」と言う呟きに対して「2時間もあったのに初動体制すら確立できなかった」といった発言をし、「自惚れるな」と釘を差される。

この時点で、「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」という勝負は既についていたのではないだろうか。既に現実は負けていた。虚構(ではあるが、僕らにとっては現実の再現でしかない)に対して、現実(ニッポン) は無力だった。それは誰かが無能だったからでもなく、誰かが暗躍したからでもない。「現実(ニッポン) 」という体制が敗北した。

現実(ニッポン) のその後

ゴジラの第一次上陸を防げず海に取り逃がしてたのち町には一時の平穏が訪れる。通常運行する電車や公園でランニングする人たち。虚構(ゴジラ)が爪痕を残しつつも、それでも日常を取り戻そうとするさまは、現実の日本を、東日本大震災を思い起こさせる。

だが、ゴジラの第二次上陸に伴い、現実(ニッポン) は、それまでとは打って変わった対応を、現実のニッポンから虚構のニッポンへと足を踏み入れることになる。

既に発令されていた防衛出動を駆使し、事前に計画していた防衛作戦を決行する。作戦は住宅街を巻き込んで行われ対戦車ヘリコプター、戦車、自走砲、戦闘機など駆使、自衛隊の使える全ての兵器を持って対応に当たる。戸惑っていた現実(ニッポン) の面影は既にない。そこにあったのは危機に対して果断に対処する虚構のニッポンの姿ではなかっただろうか。

現実の中の虚構の終わり

果断に攻撃を仕掛ける自衛隊。だがその攻撃はゴジラに対して全くの無力だった。日本の自衛隊専守防衛を旨としつつも「自衛隊は世界でもトップクラスの実力を持つ」という認識が虚構であったことが白日の下に晒される。

日米安保に基づいた米軍の支援は、日本政府の申し出や、あまつさえ住民避難さえ待たず東京の広範囲に爆撃を仕掛ける。ステルス爆撃機による市街地での地中貫通爆弾を使った攻撃は一定の効果を上げるもゴジラの反撃にあい、東京の3区画が火の海と化し重度の放射能汚染を引き起こす。

国連多国籍軍は、ゴジラに対して熱核兵器の利用を決定し、日本の制止も届かず、東京のどまんなかでの核兵器使用へと一気に突き進んでいく。

虚構(ニッポン)は、現実(日本)が信じている様々なものが虚構にすぎないという現実をつきつけられ、当事者でありながらも蚊帳の外に置かれ、対応すべき虚構(ゴジラ)に対してなすすべもなく流されてく。

そこに映しだされているのは虚構を信じる現実(日本)の姿ではないだろうか。事ここに至り、現実(日本)もまた敗北した。ここで虚構と現実の壁が一つ崩れていくのである。

虚構による救い

虚構(ニッポン)、現実(日本)が敗北したこの世界では新しく2つの虚構が与えられる。その一つは「好きにすればいい」というメッセージ。

現実(ニッポン) で行われていた硬直した官僚制度と縦割りの省庁、何かを決めるための会議をするための会議という連鎖。法律論と現場、建前のすり合わせ。そのしがらみの中で身動きが取れなかった人たちが「好きにすればいい」というメッセージを受けて自由に動き出す。

ある人は独断で機密扱いのゴジラのデータを世界で共有し分析を始める。ある人は凍結剤の生成のため日本全国のプラントを確保しだす。ある人はゴジラの情報を出汁に情報交換を行なう。そして国連決議に対して独自に交渉を行い熱核兵器の使用の遅滞と代替案の確立へと一気に物語が動き出す。

その変化は、劇中アメリカ側に「危機があれば日本でも進化する」、「まさか日本がこんな狡猾な交渉を進めてくるとは思わなかった」などと評価されるくらい劇的な変化である。この変化は、行き詰ったニッポンに与えられたたった1つの虚構がもたらした変化だった。

その後、熱核兵器の代替策として準備された凝固剤を使った「ヤシオリ」作戦が功を奏し、ゴジラは全身を凝固させて沈黙。事態は収束へと向かっていく。

その後

すべてが終わったのち、東京の真ん中では全身を凝固させられたゴジラがそのままの姿で残されていた。ゴジラの生死は不明。動き出せば、再び国連軍の熱核兵器のカウントダウンが再開してしまう。それを見ながら登場人物は「日本はゴジラとともに生きていくしか無い」と言う決意を新たにする。

その一方で、ゴジラから放出された放射性物質半減期は極めて短く、そう遠くない未来に東京の復興もできるのではないかという救いになる情報ももたらされ終幕となる。

終わりに。現実と虚構による救い

この映画では、虚構と現実という2つを対比させつつ、虚構(ゴジラ)の中にある現実(東日本大震災の記憶)、現実(ニッポン)の中にある虚構(日本が信じているもの。自衛隊、安保、国連など)、虚構と現実の壁が崩れていくさまを鮮やかに描いている。

東京に鎮座し、動き出せば熱核兵器が飛んでくる虚構(ゴジラ)と言う存在。これは今なお続く福島の原子力発電所の事故に伴う被害と重なる光景ではないだろうか。現実(日本)に重く、長くのしかかる取り除き用のないもの。ここでもまた虚構(ゴジラ)は現実(原発事故)として現実(日本)に侵食する。

与えられた一つの虚構は、放射性物質半減期は極めて長く収束の見通しも経たない現実(日本)の姿と、放射性物質半減期は極めて短くそう遠くない未来に復興できるのではないかという希望を与えられた虚構(ニッポン)の姿を鮮明に対比させる。この虚構は現実へ侵食することなく消えていく。

その代わりに与えられたもう一つの虚構「好きにすればいい」というメッセージ。これが現実(日本)に対して侵食する希望の光といえるのではないだろうか。