分断される社会を考える上で読むべき本『子育ての大誤解』

 ほんの軽い気持ちで手にとった本だけど、正直に言ってここしばらくの間で一番衝撃を受けた本。読んでる最中から頭の中をぐちゃぐちゃにされるような感覚は久しぶり。

 内容自体は「子どもの将来と親の育て方には有意な関係はありませんよ」っていう話なのでそれはそれでいいのだけど、その中で提唱されている社会集団化説が衝撃的。

 いや、それ自体は特に難しいわけでもなく、話を聞けばそうだよね、そういう事あるよねで片付くんだけど、考え始めるとこれまで社会で起きてきたこと、いま社会で起きていること、これから起きそうなことが一つにつながってくる。

 例えば、いじめや非行、差別、デマの拡散、組織ぐるみの不正や腐敗、思想的や民族、社会階層や地域による分断と対立、移民や難民問題、それらがネット上で増幅・強化されるエコーチェンバーなんかの現象、歴史を遡ればなぜヒト属には自分たち現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンスの一種しかいないのか、他のヒト族はどこへ行ったのか、なぜホモ・サピエンス・サピエンスは万物の霊長を名乗るほどに進化したのか。

 そういったヒトが集まった社会に起こりうることが一本の糸でつながっていくように思えてくる。それを知ればこれからどうしたらいいかが見えてくるのかもしれないと思わせてくれた本でした。

子育ての大誤解〔新版〕上――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

子育ての大誤解〔新版〕上――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

本の概要

 本の主題は前にも書いたように「子どもの将来と親の育て方には有意な関係はありませんよ」。ざっくり引用すると以下。

今まで子どもたちに重大な影響を及ぼすと考えられてきたもののほとんどは結局重大な影響を及ぼしていないということを意味する。親が仕事をしようがしまいが、本を読もうが読むまいが、お酒を飲もうが飲むまいが、喧嘩をしようがしまいが、結婚生活をつづけようが別れようが、それらは「家族内の子どもたち全員にとって本質的に同じ」であり、それゆえにこれらすべては子どもたちに「わずかな影響しか及ぼさない」と考えられる。同様に家庭の物理的な環境に関しても、それがアパートだろうが、農家だろうが、広々としていようが、こみ合っていようが、散らかっていようが、きれいに整頓されていようが、画材道具が多くて豆腐をよく食べようが、車のパーツだらけで高カロリー菓子をよく食べようが、これらはすべて「家族内の子どもたち全員にとって本質的に同じ」であり、それゆえに、これらはすべて子どもたちに「わずかな影響しか及ぼさない」

 もちろん筆者も念を押しているが、親が子どもを虐待してもいいとか育児放棄してもいいと言うような話ではない。ただ、親が子どもにどういう教育しようと愛情の注ぎ方をしようと親は子どもの将来に対して有意な影響を与えることは難しいですよという話。

 つまりこういうこと。

結果 内容
子どもは親の背中を見て育つ
親はなくとも子は育つ
朱に交われば赤くなる

子育て神話

 説明するのもあれなので筆者が別の本から引用したあるべき子育てのイメージはこんな感じ。これに対して筆者はそれはなんの根拠もない話で、いうなればただの神話に過ぎないですよっていってる。

親が愛情をたっぷり注ぎ、常に向かい合いながら育てた赤ちゃんは親にしっかりと愛着をもち、自信溢れる愛らしい子どもへと成長する。子どもとの会話を大切にし、また本の読み聞かせを習慣とした親は、快活で学業の成績も優秀な子どもをもつ。親に物事の善悪をしっかりと(厳しくではなく)教えられた子どもは問題を起こす可能性が低い。子どもに粗暴な態度をとる親は、攻撃的もしくは怯えるような、場合によってはその両方を兼ね備えた子どもをもつようになる。親が子どもに対して正直で、やさしく、誠実であれば、その子どもも正直でやさしく、誠実な人間になる。さらに親の都合で両親の揃った家庭を与えられなかった子どもは、大人になってからなんらかの挫折を経験する可能性が高い

じゃぁ、なにが子どもの成長に影響するのか

 結局のところ、ヒトは仲間集団の中で成長していく。子どもの場合で言えば同じ子ども集団(学校や何か)の中。その中でも自分により少し年上の子どもが影響力をもつ。

 集団の中でヒトは自分の立ち位置を確認し、その集団に合わせて自分を調整し振る舞いを使い分けていく。その集団は「学校のクラス」や「近所の友だち」という実際に集まっている集団の場合もあるけど、例えば、「大人と子ども」、「男と女」、「陰キャ陽キャ」、「誰それのファン」なんていう概念的なイメージである場合もある。

 そして重要なのは、子どもはこれらの集団のどれかひとつだけに所属するわけじゃなく、場合や状況に応じて所属する集団を使い分けている。そして「家族」や「親子」、「兄弟姉妹」といった今まで特別だと思っていた関係性も、その使い分ける集団の中の一つにしかすぎない。

 外ではよく喋るけど家に帰るとおとなしくなる子もいれば逆もいる。家と学校、親の前と友達の前で態度が違うやつなんかざらにいる。家では横柄で乱暴だけど外に出れば優等生なんてのも珍しくない。そう考えればなにも難しいことはない話し。

 そしてヒトはこういう使い分けを本能レベルで無意識下に行っている。生後しばらくしないうちからそれは始まって、自分と他人、自分たちと他人、こちらとあちら、そういう世界の分類の仕方と所属集団の確認、調整は誰から教えられるわけでもなくできるようになる。

 取り巻く集団をカテゴリーに分類して自分と所属する集団の差異を埋めていく。そうしていくうちに集団は似た者同士が集まっていく。ただし集団の中での立ち位置を確保するために集団の中でも差別化していく。そうして集団のなかでもそれぞれごとに少しつづ違っていく。

そうは言っても親は大切

 ここまでだと、じゃぁ親は無力なのかというとそうじゃない。

この本では皆さんにとっておそらく初耳となるであろう三つの説を述べている。

第一の説は子どもの性格形成に親は完全にあるいはほとんど無力ということだ。子どもはその性格と行動が親と似るが、その理由は二つある。一つは親から遺伝子を受け継ぐから、もう一つが両者は通常同じ文化あるいはサブカルチャーに属するから、である。

第二の説は子どもたちが社会化を果たし、性格が形成されるのは、家庭の外での経験、すなわち仲間と共有する環境の中だということ。

第三の説は一般化(汎化ともいう。ある刺激に対して条件反射が形成されると、類似した刺激に対しても同様の反応をもたらすこと)に関することだ。心理学者たちは長年、人の行動パターンはそれに伴う感情とともに、ある社会的状況から別の社会的状況にいとも簡単に継承されるものだと信じてきた。

第三の説によればその思い込みは間違っている。異なる社会的状況においてどこか似た行動をとるのは、その多くの場合、遺伝的要因によるものだ。遺伝子はどこまでもついてくるが、親きょうだい間で身につけた行動は親きょうだい間でだけ有効なのだ。子どもたちは過去の社会的状況で学んだ行動パターンを引きずりながら新しい状況に向かうわけではない。現状に即した新しい行動パターンを身につける準備はしっかりできているのだ。私の考えはこれまで何度も要約されてきたが、この第三の説に言及されたことはほとんどない。

だが私にとってはこの第三の説こそが、最も重要な私の仮説なのだ。メディアでは私の考えは次の八文字に集約されている─ ─「親は重要ではない」。もちろん親は重要だ!でもどこで、どのように重要なのか。「どこで」への回答につながるのがこの第三の説だ。親が重要な場面というのは「家庭」だ。そして「どのように」への回答が人との関係だ。人とのかかわりがあらゆる人間にとって重要なのだ。

 そこら辺についても筆者は再三に渡って注意を促している。たとえば離婚。片親であること自体は子どもがどう成長するかにはほとんど影響しないけど、離婚という事象自体は子どもに大きな影響を与える可能性がある。

離婚はいくつかの点で子どもにとってゆゆしい事態となる。第一に、重い経済的代償を払うことだ。離婚した親の子どもたちは、普通、生活水準の急降下にさらされることになる。経済状態は彼らの住む場所をも左右するが、どこに住むかは彼らに大きく影響する。つまり第二に新たな地域への転居を余儀なくされることだ。中には何度も転居を繰り返すことになる子どももいる。第三に肉体的虐待を受ける可能性が高まることだ。継父や継母と同居する子どもたちは、実の両親と生活する子どもたちよりも虐待を受ける可能性がはるかに高い。そして第四に、離婚のために子どもが個人間で養った人間関係を断ってしまうことだ。

つまり子どもが巣立ってから離婚するのは賢い選択なのかもしれない。

なんで衝撃を受けたのか。その1

 言ってみればただそれだけの話になんで衝撃を受けたのか。

 それは今まで筆者のいう子育て神話を漠然と信じていた自分がいたことに。その反例や反証、そういったものは目の前にあったし、見聞きしていたにもかかわらず、自分の都合のいいように漠然としたイメージで使い分けていたことに気がついた。

 蛙の子は蛙って言葉も知っていたし、鳶が鷹を生むって言葉も知っていた。優秀な親からだめな人間が育つことがあるのも知っていたし、親が熱心に何かを教育しても子どもには全く響かずに無駄に終わる話も知っていた。真面目な親からグズみたいな人間が育つこともあるし、クズみたいな親から聖人君子みたいな人間が育つこともある。

 そっくりな一卵性双生児もいれば、似ていない一卵性双生児もいる。似ている兄弟も似ていない兄弟もいる。全く血の繋がりもないのによく似ているやつもいる。ある集団はお互によく似た行動を取る。

 それらを冷静に取りまとめると「親の育て方は子どもがどのように成長するかにほとんど影響がない」という結論にたどり着いてしかるべきなのに、そんな話を考えようともしなかった自分がいる。なんとなくその時の状況に応じてしたり顔で「まぁ、蛙の子は蛙だよね」とか「鳶が鷹を生んだみたいな話だよね」とか考えてた。

 どんだけ自分は能天気で考えなしだったのか、物事を理知的に見れないのか、目が節穴なのか。もちろん、筆者の言うとおり親と子には遺伝的なつながりや社会的なつながりがあるし、似たようなところもあるから一概にいえないんだけど、そこら辺は本を読んで見てほしい。

なんで衝撃を受けたのか。その2

 ここからが本題。

 結局のところ、この話は「ヒトは自分が所属する集団にふさわしい振る舞いをするようになり、他の集団と差別化していく」ってところに落ち着いていく。考えてみれば当たり前。無意識レベルで言えば類友って話だし、人為的レベルで言えばチームごとに異なるユニフォームを着て一体感を高めるとか当たり前。簡単に言えば仲間意識。

 そしてこれがどうして起こるかっていうと、ヒトは自分を無意識レベルで集団に帰属させていくし、その集団としてまとめるためにお互いにお互いが同質化していくし、自分が所属しない集団と混ざらないように集団自体が別の集団とは差別化を図っていく。

ヒトは「あちら側」と「こちら側」を区別する

 簡単に言えば、ヒトは「あちら側」と「こちら側」を区別するし、「あちら側」を常に差別化する。その差別化の中には「あちら側」を排斥するということも含まれる。

 これって今問題になっているいろんなことの根幹にある現象だと思うんだよね。

 たとえばいじめは本質的には原因なんて無いんだろう。いじめる方にとっていじめられる方は「こちら側」ではなく「あちら側」というだけ。いじめる方にそう判断されるきっかけはあったのかもしれないけど、きっかけ自体にはなんの意味もない。組織ぐるみの不正が正されないのもその組織が「こちら側」だから、「あちら側」である世間から守らないといけない。思想や民族、社会階層の対立も結局のところ「こちら側」と「あちら側」に分けることで発生する。

 ネットで言われるエコーチェンバーだって、結局「こちら側」はより似てくるってだけの話だし、思想が先鋭化していくのも「こちら側」が似てくる+「あちら側」と差別化を図ってるって話。移民や難民の対立問題もおんなじ話。

 本来的にはプラスの感情であるはずの何かのファンやサポーターが過激化してほかのファンわサポーターと対立するなんてのもよく聞く話。おなじファンやサポーターの中での対立もよく聞くよね。

 こういう「あちら側」と「そちら側」は無意識レベルで作られるし、ヒトは必要に応じていくつもの「こちら側」を使い分ける。ネット上では過激な発言をしている人が、家では良い夫・妻・子どもであることになんの矛盾も発生しないし、会社では真面目な人が家ではDVをしているなんてのも矛盾は発生しない。

 こう考えると、なにか問題があったときにすぐに「あちら側」と「こちら側」をわけて断罪してしまうのは悪手だと気づく。あいつらはわかってない、あいつらが悪い、それは対立を鮮明にし、対立を固定化してしまう。

自分をなにかの集団に帰属させる

 いろいろな集団が同質化していき、互いに互いを差別化していく。それは時間が経てば立つほど先鋭化してより深刻な排斥や対立として表面化する。

 ネットがなかった時代には、ヒトの目に映る集団は多様ではあったけど今よりもずっと少なかったんだろうと思うし、その集団が同質化していくための方法も乏しかったし、なにより時間がかかったんじゃないかな。

 それがネットの時代になると、少しネット見ていれば山程の集団が見つかるし、24時間いつでも集団に帰属できるようになる。差別化する他の集団にも事欠かない。それに必要な情報も真偽は別として山ほど出てくる。そして加速度的に先鋭化してより深刻な排斥や対立として表面化する。

 きっかけは何でもいいんだと思う。自分は「こちら側」であること、「こちら側」は現実の集団でなくても構わない。「あちら側」は「こちら側」以外のすべて。相手に事欠くことはない。必要であれば「こちら側」の中でも「こちら側」と「あちら側」を作ってしまえばいい。「あちら側」と「こちら側」はいくらだってつくることができる。

人為的に「あちら側」と「こちら側」を作り出す

 もちろん「あちら側」と「こちら側」を人為的に作り出すこともできるだろう。私達は世間から十分に顧みられていない、見捨てられている、ないがしろにされている、攻撃されている、奪われてる、不公平だ。そういった言葉を使えば、人は簡単に自分を「こちら側」に所属させる。

 周りを見渡してみても、そういう話はゴロゴロしている気がするし、それを意図的に作り出している、表出させているように見える人たちもゴロゴロしている気がする。「こちら側」は「あちら側」とは違うのだ。我々は奪われている。

 もちろん、一種の扇動としてそれを承知でやっている人たちはいるんだろう。それはすごく恐ろしいことなんだと思う。なにせヒトの無意識レベルに働きかけるんだから。一種の洗脳、集団ヒステリー的な状況を作り出せるんだから。ネットのおかげでより広く、より効率的に。

虐殺器官と虐殺の文法

 こういう話を考えていて思い出したのが伊藤計劃の「虐殺器官」。もちろんSF、フィクションなんだけど、その中にヒトには虐殺を行なうための虐殺器官というものがあり、それを人為的に刺激するための虐殺の文法が存在している。その虐殺の文法を使うと、ヒトは知らず知らず虐殺器官が刺激され、広範囲に撒き散らすことで集団虐殺を発生させることができる。

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 結局とのころ作中では虐殺器官とは具体的になにか、虐殺の文法とはなにかは明かされないんだけど、この「ヒトが無意識的に『あちら側』と『こちら側』を分けてしまう」まさにそれこそが虐殺器官じゃないか、「ヒトを『あちら側』と『こちら側』に分けるように人為的に誘導する」まさにそれこそが虐殺の文法じゃないか。

 最終的に物語としての「虐殺器官」がどうなるのかは実際に読んでみてほしいし、実質的な続編である「ハーモニー」がなぜああいう話になったのかも、なんとなく腑に落ちてしまった。

 いや、普通気づくだろって言われればそれまでなんだけどさ、ここまでこないといろいろな話をリアリティを持って考えられなかったんですよ。

まとめ

これは良い知らせなのかもしれない

 子どもがどのように成長するかに親がどう育てるかが影響することは少ない。もちろん遺伝的な影響はあるが、それは全てではない。これはとても良い知らせのように思える。いまニュースを見ていると、やれ云々に影響する遺伝子を解析しましたやら、子どもはこう育てないといけないという言説やらが話題に上がらない日はないように思える。

 この本に書いてあることを鑑みれば、それらは我々を構成する全てではなく、影響はあるが全てではないと考えられる。それは遺伝子や自分のコントロールでできなかった親の育て方に縛られる必要はないということ。また、子ども時代にどのような集団の中にいたか、その集団の中でどういう位置にあったかが重要ではあるが、一度そのことを認識さえしてしまえば、あとからでも思い直すことができるかもしれない。気に入らなければ意図的に別の集団に入ればいいのだ。

 子育てに悩んでいる人にとっても、子どもが困難に陥っているときにどうしたらいいかの指標になるだろう。子どもは所属する集団によって社会化される。もし今所属している集団内での子どもの扱いが適切でないなら、別の集団へ所属させればいい。本書では社会不適合の傾向を示している子どもを別の地域に転居させることで一般的な意味での更生を成し遂げた例も多数述べられている。

 もちろん、子どもたちにとって転居はどう転ぶかわからないバクチ的な要素はあるにせよ、現に問題が生じているのであれば、どのように対処できる可能性が残っているかの選択肢として残していてもいいと思う。少なくとも無駄に我慢して耐え忍ぶ道よりはマシかもしれない。

 そしてなにより、自分に影響している要素に対して無自覚でいるより、多少なりとも自覚的であったほうが、いくつになっても有用だと思う。

これは悪い知らせなのかもしれない

 この本に書かれていることは、人をコントロールするための指針となりうる。もしこの本を読んでいない人が相手であれば複数人の協力者がいさえすれば、どのようにでも人をコントロールできるかもしれない。もしかすると集団の中のリーダーだけでもこの考え方を技術として使うことを知っていれば、その構成員を自由にコントロールすることができるかもしれない。

 それこそ、伊藤計劃虐殺器官のジョン・ポールのようにメディアに関わる人間がこれをしれば虐殺の文法を自由に扱うことができるかもしれない。この本で触れられていることは突飛なことではない。ある意味、一般的な知見の集合だし、今まで見聞きしているものの列挙でもある。

 ただ、この本はそれを一つの枠組みに収めてしまった。ヒトは集団を作り、自身を集団に帰属させ、より帰属させるために集団内の構成員は同質化していく。また、ヒトは集団を維持するために別の集団を想定し、その集団と自身が帰属する集団を差別化していく。「こちら側」と「あちら側」。その差別化は、話し方、文化、態度、習慣、着るものからちょっとした仕草、訛りなど多岐にわたり、差別化の一環として相手集団の排除をも行う。

 そして重要なのは、集団は物理的な集団だけではなく、観念的な集団、自身が所属するであろうという集団でも構わない。どの集団に所属するかは無意識レベルで行われ、ヒトは状況に応じて自身が所属する集団を簡単に切り替えることができる。もし、誰かが所属する集団をコントロールできるなにかが存在したら…。きっとそれはすごく怖いことなんだろうと思う

ところで結論は?

 この話に結論は特にない。単に本を読んで衝撃を受けましたってだけ。

 でも、自分たちヒトはこういう特性を持っているのだということを知ることで、今まで漠然としか持ってなかった社会問題に対するイメージをはっきり持つことができるような気がする。

 例えば重ね着が好きな人がいて、重ね着するのが自分流だと思ってこだわっている。けど、よくよく考えたら単純に自分が寒がりだったり、周りの気温が低かっただけだったりすることに気がつく。

 別にそれでなにか問題が解決するわけじゃないけど、きっとそれに気がつけば自分流にこだわらず、もう少し周りをよく見ることができるようになる気がするよねって話。